2020年に起きた、自分の性愛への姿勢の変化について

※こちらの文章は、私がレズビアンにコンプレックスや罪悪感を抱いたこと、性被害を恋愛や性体験の話として認知を歪めて語り、性暴力に加担してしまったことなどを書いています。前者で想定しているのは「女性差別クィアがなかったことにされている環境で生き、なかったことになっていない同性愛当事者に憧れ、自分はシスヘテロ恋愛の経験があるから彼らへの支持をエンパワメント消費してしまっている罪悪感を持つ人間」からの立場です。私の勉強不足から来るレズビアン当事者への配慮の欠如、性被害体験等の描写から、読む方の立場によってストレスを受ける可能性があります。これにより読んでくださった方に傷が生まれることが一番悲しいので、決して無理をせずにお読みください。

 

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年内に自分の性愛に、それなりの言葉を与えたいと思ったので、メモをします。noteに投稿しようかと思ったのですが、最近運営の雲行きが怪しいのでこちらにしました。漫画も文も載せられるオススメ媒体がありましたら教えてください。

 

私は今年、自分の行動原理を、原罪意識の払拭だと思いました。

自分の生きている造作のすべてが、人を傷つけているように感じます。

 

今、恋愛や性愛がとても苦手で、そのことを考えると消耗します。そして恋愛について考えなくていい、安全な場所を作りたいと考えています。

 

と言いつつ、ネット上のレズビアンカップルにロールモデルを見出しています。自分の将来を空想する中で、彼女達の生活の納得度は、人生の中で格段に濃いものでした。レズビアンの当事者じゃないことへのコンプレックスは、ずっと昔からありました。それは周囲からの「当事者じゃないくせになんで差別に怒るんだ」という問いに説明しなければならない負担や、親の「自分の子どもが同性愛者だったらショックだと思う」という発言から来ていたのかもしれません。レズビアン当事者に向けられた差別を受けていないのに、今より楽になる部分だけ取り入れたいと願ってしまう自分が恥ずかしかったし、罪悪感がありました。

これまでさんざんシスヘテロの恋愛の特権の中に生きてきた自分が、レズビアンに憧れることは、特権を持つ側からの消費だと感じます。性的指向は、家父長制からの逃げ場ではないです。指向が変わる可能性があるとはいえ、私は男性に対して性的な欲求を抱くことが、これからもあると思います。しかし異性愛を基軸にした家族形成には、もう自信がありません。そのくせ将来、人と一緒にいたいという厚かましさが残ってしまうかもしれません。今は誰かと一緒にいることが怖いので想像できませんが、未来はわかりませんし。気持ちが自立したのなら、異性愛から離れた形で寄り添える相手がほしいです。既に言葉を与えられている性的指向の当事者に対し、自分は足りない存在だと感じます。

 

まだ言葉がないということから、自分は特権を持つ側に身を振ってしまう可能性もあります。そして他者に対し、何かしらの関係性を築き、実践します。だから学ばないといけないし、自分の加害性や非当事者性を自覚した上で、言葉を選べるようにしたいです。同性を好きになる可能性があることと、同性と一緒に暮らしていくに当たり社会的に求められること、制限されること。これらを混同せず、解像度を上げます。自分が当事者である部分とそうでない部分を認識し、倫理的に判断して、それぞれ向き合っていきます。

 

今年本当に自分にとって良かったのは、家父長制がストレスだということを、言葉にできたことです。人生のすごく長い期間、人間は恋愛しないと生きていけないと思っていました。恋愛から家族形成までの流れを、社会生活と人生の目的だとさえ思っていました。

大学3年生の頃に、性被害に遭いました。

手渡された酒を飲んで意識がなくなり、気付いたら相手の家のベランダにいました。下半身の服を脱がされた状態で、行為に及ぼうとしているところでした。意識がない間に写真を撮られており、交際しないと写真をネット上に流出する、と後から言われました。

この出来事の中で、被害で受けた傷以上に後に引いていることがあります。その後悔が、自分を一番恥ずかしく思う点です。これから先も一生消えない罪の意識です。

当時の私は、暴力と支配の話を、恋愛とセックスの話として認知を歪めました。もっとましな防衛機制はなかったんでしょうか。性暴力を単なる性体験と置き換え、その時の友人に笑いごとのように話しました。そして自分自身は、より加害性の強そうな相手に依存するようになりました。自ら被害を受けそうな場を選び、主体性のもと行動していると思いました。また、自分もなるべく性愛関係にある相手を傷つけるようにし、直接的でない復讐をしました。自分自身が加害性を持つこと、相手を支配できる意識を持つことで、安心しようとしました。こういった私の行動は、間違いなく加害しやすい空気を強化していたと思います。1年ほどして、相手の男性が逮捕されたことを友人づてに聞きました。私がまともな被害者意識を持たなかったせいで、新しい被害者が生まれました。

 私は心から自分を愛したり、誇りを持てることは、この先ないと思いました。漫然と死にたいと思い続けていました。私を大切だと言う人を、かわいそうに思いました。私のクソさまで愛する必要はないんですが、軽蔑されると傷つきましたし、そのたびに自分が恥ずべき人間だということを再確認しました。反省したところで、暴力に加担してしまった事実は何も変わりません。生きている残りの時間を、ただ自分を責めることだけに費やしました。

 私が2020年を好きだった理由は、その上で生きる道が見えたからです。ず〜っとインターネットにいました。目の前の人間関係だけに生きなくていい事実にほっとしました。インターネットありがとう。私はもう、今までのように差別が嫌いな理由をわざわざ説明しません。政治的な発言に、こわいと思われちゃうカナ😅アセアセ的な価値付けはしません。孤独は怖いけれど、私は孤独を埋めるために一緒にいる人を殺すので、自分の加害性が人に影響を与えるリスクよりはましです。

 嫌いなものがはっきりしました。家父長制が嫌い。差別が嫌い。AVが嫌い。権威主義が嫌い。人を傷つけることが、ものすごく嫌い。他人がどうであれ、私は嫌いです。嫌ってる状態が楽なので嫌いです。個人の思想は自由ですが、私の嫌いなものを好きな人と、プライベートの時間割いてまで一緒にいたいと思いません。拒否する以前に、安心や安全を感じられないと思います。でも私も20代前半くらいまでAV見まくってたので、生きていて他人を傷つけることに加担せずにいられるとは思わないんですが。それでも自分の未来において、できる限り非搾取的な選択をしたい。AVは必死にデトックスしましたが、自分の性的興奮がAV業界のマーケティングや記号に依存していたことや、人権を軽視された他人の身体の映像によって得られていたものだという事実は、これからも自分の性体験へ尾を引くと思います。業界の批判がセックスワーカーの差別に繋がってしまうと元も子もないので、これについてはもっと勉強してから発言します。

 

 で、色々でかい空気が自分の中で位置付けられるうちに、私がしてしまった防衛機制も、もっとでかい問題なんじゃないかなと思いました。だって周りには、私以外にもそうなっちゃってる人がいっぱいいました。恋愛や性体験に、特権を見いだしていました。そして被害者でありながら、差別と暴力に加担していました。でも私は彼女達に死なないでほしいと思います。加担した上で強化された暴力の被害者はたまったもんじゃないですが。わりと多くの人が持ってる罪の意識で、そこを諦めて冷笑したくなったり、さらに攻撃することで攻撃者としての地位に甘んじたり、反省して葛藤したり、できることをしたりしてるんだと思います。性暴力以外にも、学生時代に同級生をいじめてしまったとか、外国人を怖いと思い、それを口に出してしまったとか。私は絶対に冷笑はできません。被害を受けた際の我慢と、自分の加害性を認めた時の冷笑は、暴力を大きくすると理解したからです。被害を受けながら自分が加害者になることは、自傷行為に近いからです。同じような人がいましたら連帯したいです。

 で、私の体験について何がどうでかいのかというと、私は被害の前まで、そこそこホモソにいました。サークルや予備校では、外見についてや、恋愛やセックスの対象としての評価をたくさんされました。かなりの低評価で、会うたびにブスだと言ってくる方もいましたし、改善すべき点のアドバイスをくれる方もいました。あとそれ以前に、10代を過ごした場所の空気もおかしかったです。これ地方出身女子めっちゃ共感してもらえるんですが、婚姻制度の呪い半端なくないすか?呪術廻戦読んでないんですけど、それに出てくる呪いとどっちの方がでかいですか?目に映る家族は「男女の親とその子ども」からなる形態しかなく、成績が悪ければ女の子だから良いと言われ、良ければ公務員やら留学やら大手企業就職やらの将来像を勝手に決められ親戚内で大盛り上がり、子どもを欲しくないと言えば人として冷たいだの甘えてるだの反抗期だの、結婚しないこと以外の選択肢が企業戦士しかないだの、テレビのオカマは気持ち悪いだの天皇様ありがたやだの。。。私はサークルではブスで、親戚にとっては賢い美女で、顔がいいのは父方の種がよかったからで、(でももっと化粧をして派手な服を着て、眼鏡を外しコンタクトにした方がいい)賢いのは議員やってる親戚のなんとかに似てるからで、そろそろ結婚しないといけなくて相手は学歴と金と安定した職歴がないといけなくてぁぁぁぁ。。。。。

 家父長制ベースの家族形成は、女性であれば誰もが行き着かなければいけないゴールで、それに繋がる恋愛とセックスを、一番大きな生存戦略だと思っていました。その法則に則れない人間は、劣っているとみなしていい存在でした。私の育った環境では、それが紛れもない現実です。その中で、私自身の価値はまるでありませんでした。結婚に繋がる「日本人男性の本音」を教えてくれるホモソの友人の価値づけは絶対で、ありがたく聞いていました。婚姻制度内での価値がゼロの私にとって、性被害に遭い性対象としての価値が証明されるのは、喜ばしいことでした。アホみたいなこれらの状況を、自分に向けられる分には問題ないかのように冷笑しつくしました。問題なくするために、自分も他人を傷つけました。ストレスを受け入れるのが社会への適合だと信じました。それがインターネット体験を通じ、人生大事に生きてる全然知らない女に向くのを見て、やっと我慢できなくなりました。バカか?

 呪いを受けずに生きた人、呪いを受けても苦しいことだとまともに解釈できた人を、インターネットでたくさん知覚しました。なんかめちゃくちゃ幸せでした。わけわかんないくらい幸せでした。私より年下ばっかなんですが、ハマってることの知識が深かったり、(そして知識を深めるのに遠慮がない)SOGIで差別されたことをちゃんと痛みとして描いたり、クソ政府にちゃんとクソむかついたりしているのが、クソ幸せでした。ネット人格とかアイドルとかゲイアイコンとかオタクとか在日外国人だったりするこれらの人々は、私の預かり知らないところでそれぞれに私生活があるようでした。その人達を見ていると、ただ人を傷つけるために費やしてしまった自分のこれからの時間を、どう使うべきかが見えてきました。すべてを解決してくれる幻想に見えた愛と違い、ひとりひとりが不完全で、紛れもなく世界を変える主体でした。

 

 世界は冷たい場所です。それは間違いないけれど、私は良くなっていると思います。個人的に。だから色々大丈夫だと思います。これはストレイキッズさんのget coolの歌詞のもじりです。